上野駅北側に広がるバイク街、かつて「昭和のバイク乗りの聖地」としてバイクファンの心を熱く燃やしてきた場所がある。
昭和生まれのバイク乗りなら、あの独特の雰囲気を忘れることはないだろうし、今でもそのエリアを歩くと少し物悲しい気持ちになる。改めて調べてみると「そんな歴史があったのか」と驚かされた部分が多かった。
この記事では、そんな上野バイク街の昔と今を、昭和への愛を込めて振り返ってみるとしよう。
戦後からバイク街が生まれた背景
戦後の日本は混乱の最中にあり、物資の不足が続いていた。そのため、日常的な移動手段として手頃なバイクが重宝されるようになった。
このころ上野駅の北側には、戦後の復興と共に生まれた闇市があり、そこからバイクの取引が自然に生まれていった。初期に上野に集まったバイクショップは、言わば闇市の延長であり、正規品もあれば、個人で組み立てられた自家製のような代物もあったという。
今の感覚では信じられないかもしれないが、それが当時の「バイク屋」のスタイルだったのだ。
1950年代〜60年代:上野バイク街の確立
昭和30年代には、バイクが普及する中で次々と専門店が登場した。
特に「光輪モータース」や「旭東モータース」といった伝説の店舗がこの時期に上野に根を下ろし、バイク街としての基礎が固まっていった。
昭和のバイク街は、ただの商業地ではなく、バイク愛が集まる「アジト」のような存在だった。オートバイ用のパーツやウェアを販売するだけでなく、情報交換の場としても機能し、来店するたびに新しい発見があったのだ。
1970年代〜80年代:ブームの頂点と「ヤンチャ」な空気感
昭和50年代、上野のバイク街は黄金期を迎えた。
この時期、特に若者たちが旧車やレーシングモデルに憧れ、週末ごとに全国各地から集まるようになった。「上野の街全体がバイク祭り」と言っても過言ではなかった。街には派手なジャケットやブーツを履いた若者が溢れ、通り全体が独特な空気で包まれていた。
現代の静かな通りからは想像もつかないが、昭和の上野はまさにバイク文化の熱狂の中心地だったのだ。
特に「光輪モータース」では、当時の日本では珍しい外国製の高級パーツが並び、まるで宝の山のようだった。ブレンボのブレーキや、パイオリのサスペンションなど、手に入れることがステータスだったパーツを揃えるため、多くの若者が列をなした。また、「パチモン」扱いのアイテムも多く、掘り出し物を探す楽しさがあったのも昭和らしい光景だ。
1990年代〜2000年代:バイクブームの終焉とともに
平成に入り、バイク人気が徐々に落ち着きを見せ始めると、上野バイク街にも変化が訪れた。
若者の車離れが加速し、さらに郊外に大型バイクショップが多数出店したことで、上野でパーツを揃える必要が薄れてきた。かつては満員電車のような混雑だったバイク街も、次第に閑散とした雰囲気に包まれるようになった。
さらに、時代の変化と共に古くからの店舗が次々と閉店を迎え、昭和の面影が少しずつ薄れていった。
かつての「光輪モータース」は、2008年に自己破産を余儀なくされ、名物社長だった若林氏も2010年に不慮の事故で亡くなっている。こうしたニュースは、昭和を知るバイク乗りたちにとって何とも寂しい出来事として記憶されている。
現代:上野バイク街の今
2020年代の上野バイク街は、全盛期の面影を残しながらも、ひっそりと営業を続ける店舗が点在するのみである。
現在、かつてのバイク街の中心にあった「MOTORCYCLE SCS(光輪モータース)」などは、観光客にも人気があるが、全盛期のような「聖地」感は薄れているのが実情だ。
とはいえ、現存する店舗は限られているものの、外国人観光客には未だに「バイクの聖地」として認知されており、MotoGPやモーターショーのシーズンには、遠方から訪れる観光客が集まる姿も見られる。
現代においても「カムカム」や「三和モータース」といった一部のショップは営業を続けており、昭和の記憶を今に伝えている。
これらの店舗は、あの時代の匂いを残しつつ、今もバイクファンを温かく迎え入れている。興味のある人はぜひ訪れてみるといいだろう。
まとめ
上野バイク街は、バイクファンの夢が詰まった昭和の象徴的な場所だった。今では少し静かになった街並みだが、通りを歩けば、あの時代の熱気が感じられる瞬間がきっとある。俺も知らなかった歴史を知り、改めて昭和のバイク街の深さに思いを馳せた。「かつてはこうだったんだ」ということを心に留め、次に上野を訪れる時には、昭和の名残を感じながら歩いてみてほしい。